「代々木上原 鮨武」のルーツ、始まりは明治20年

「いきなりなんの話だ?」

と思ったあなた、まぁそう焦らずにお願いします。

私、東京代々木上原「鮨武」の主、毛利武司。

生まれは新宿区四谷です。

家業も鮨屋でした。

代々木上原「鮨武」のオープンは2015年11月でしたが

その前に家業の鮨屋を20年間やっていたわけです。

今回はその鮨屋「亀井鮨かめいずし」の創業についてのお話です。

私自身のご先祖に関する物語ですが、ちょっとだけお付き合いください。

「亀井鮨」創業の物語

曾祖父「伊勢松・いせまつ」

時は幕末の文久2年(1863年)12月24日。

神奈川県大住郡(現在の神奈川県伊勢原市一帯)の刀鍛冶「亀井源蔵定兼 かめいげんぞう さだかね」のもとに

「伊勢松」は三男として誕生しました。

亀井家は「刀鍛冶」を生業としており、苗字と帯刀を許された格式のある家柄でした。

放蕩息子だった「伊勢松」

伊勢松の父「源蔵」は文政2(1819)年生まれ。

伊勢松が生まれたのは彼が43才のとき。

可愛いあまり少々甘やかしてしまったのか

この伊勢松、結構な放蕩息子だったらしく

父の源蔵は,伊勢松の生活態度を幾度となくたしなめていたのだとか。

それでも生活を改めない伊勢松を、源蔵はついに勘当してしまいます。

亡くなった祖母から聞いた話では

その日、またしても朝帰りの伊勢松を、源蔵は玄関に正座して待ち構えていました。

座布団の下に短刀を隠しているのを見た下女(お手伝いの女性=当時の呼び方)が

門の外で伊勢松を引き留め

「坊ちゃん今帰ってはいけません。これを持ってどうぞお逃げなさい。」

と幾らかのお金を手渡したのだそうです。

ときは明治12(1878)年。伊勢松15才の春のことでした。

伊勢松江戸へ ~亀井鮨の旗あげ~

江戸に出た伊勢松は日本橋の「美すじ」という大きな鮨屋に住み込みで働きはじめました。

おそらく着の身着のままに江戸に出てきたので「住込み」であることが必須だったのかもしれません。

しかしなぜ鮨だったのか。

残念ながらその理由は伝えられていません。

このとき伊勢松が「鮨」を選択していなければ、今の「鮨武」もなかったかもしれないですね。

伊勢松は約10年間修業を重ね、念願の自分の屋台店「亀井鮨」を開業したのです。

亀井家を勘当されて10年あまり。

それでも店の名を「亀井鮨」としたのは

やはりその胸中に故郷や亀井姓への郷愁のようなものがあったからでしょうか。

明治20年3月20日、伊勢松は24才になっていました。

(当時の店の様子。残っている資料を携帯で撮影。)

伊勢松と毛利家との出会い

「美すじ」での修行中、伊勢松は同じ店で働いていた5才年下の「セイ」と出会います。

二人は、伊勢松が「亀井鮨」を開業した3年後に結婚することになるのですが

この「セイ」が「毛利家」の娘だったのです。

二人の結婚は、伊勢松が毛利家に婿養子に入る形で実現しましたが

戸籍を丁寧に見ていくと少々奇妙な動きが見えてきます。

実は伊勢松、亀井家を勘当された後、同じ大住郡の「堤恵観」という人のもとに養子縁組みされていました。

(伊勢松が堤家に養子として入籍し、10年後に再び亀井家に戻ったことを記した戸籍。伊勢松の松の字が間違っている)

「セイ」と出会い、亀井鮨を創業した当時、伊勢松は「堤伊勢松」だったわけです。

ところが

「毛利セイ」と結婚する直前、この堤家から亀井家に復縁しているのです。

そして亀井姓にもどったわずか6日後に

「毛利セイ入夫トナル」

として「毛利伊勢松」になっています。

伊勢松が本来の亀井姓に戻れたのはわずか6日間だけ。

婿養子になることがわかっていればわざわざ亀井姓に戻る必要などなかったはずです。

なにがあったのか。

事情を知る人はすでにこの世になく、記録も残っていません。

「セイ」の父毛利定次郎(さだじろう)は、萩毛利家の江戸屋敷からそう遠くない赤坂に居を構え

本郷で寺子屋を経営しており

松下村塾の吉田松陰とも親交があったほどの人物だったといいます。

これは想像ですが

定次郎は「勘当されて養子の身分」である男と、自分の娘の結婚を認めなかったのではないかと。

困った伊勢松は堤家との縁組を解消し、亀井家に復縁することで定次郎の承認を得たのかもしれません。

先にも書きましたが亀井家は苗字帯刀を許された名家でした。

「養子の者との結婚は相ならんが亀井家の人間ということなら認めよう」

と定次郎が言ったかどうかは分かりませんが、当時の価値観からすると、あり得ることかなと思うのです。

 明治23年4月27日 「亀井鶴吉方 旧縁復帰ス」

 明治23年5月 3日 「東京市赤坂区青山南町〇〇番地 毛利セイ入婿トナル」

という慌ただしい動きから、そんなことを想像してしまい

我がご先祖ながら微笑ましいやら苦々しいやら。。

ちなみにこの時、伊勢松の父源蔵は存命でしたが、敢えて父の籍に戻らず

長兄「鶴吉」のもとに戸籍復帰しています。

勘当から10年が過ぎていましたが、源蔵の怒りが収まっておらず復縁を認めなかったのか

それとも伊勢松の側が「男の矜持」をみせたのか、今となっては知るすべもありません。

ただ

すでに堤家の息子になっていた伊勢松が、自らの店の名前を「亀井鮨」にしたことを考えると

伊勢松の「亀井」にたいする愛着はかなり強かったのかもしれませんね。

(伊勢松の古い戸籍(伊勢松以外は画像処理しています))

伊勢松の亀井鮨は着実に繁盛していった

文明開化とともに歩みを始めた亀井鮨は

時代の後押しと伊勢松の頑張りで少しずつ繁盛店に成長してゆきます。

遊びが過ぎて家を追い出され、名字さえも失った若者が

心を改め、一念発起して繁盛店の主となっていく。

その力強さを思うとき、いつも頭に浮かぶ一節があります。

「ドブに落ちても根のるやつはいつしか蓮の花と咲く」

映画「男はつらいよ」の主題歌の一節。

セピア色の戸籍の向こうに見える伊勢松の心根を思うとき

私はこの歌詞を思い出して少々こみ上げるものを感じるのです。

やっと手に入れた自分の屋台で懸命に働いた伊勢松

新たに移り住んだ四谷から青山1丁目まで屋台を引いての商売でした。

子供も生まれ、商売に育児に、二人は無我夢中で働きました。

伊勢松とセイ、長男定司の頑張りを記した文章を毛利剛三(伊勢松の3男・後の鮨商組合の会長)が残しています。

当時長兄の定司は日本橋の「美すじ」に修行中であったが、家に戻って店は順調に前進した。

夜12時過ぎにゴロゴロと屋台の音がしてくると当時幼かった私と妹は

「ああ帰ってきた」と思い

一息ついて安心して眠りについた。

兄は早朝から河岸に向かい、母は早朝から家事に追われ

「一体皆はいつねむるのか」と

幼心にも案じたものである。

(亀井鮨の大八車。これに材料を積んで運んでいたのでしょう。資料より携帯で撮影)

伊勢松夫婦、定司、剛三らの頑張りで亀井鮨はとても繁盛していきました。

(夕景になるとこの屋台を押して車道と人道の境に組み立てる。家から米や魚、炭や用水を運び炭火を起して商売ができるまでに約一時間位は掛る。其頃、お客様が行列を作って立食いと共に竹皮づつみの御土産が良く売れた。)

大正4(1915)年、伊勢松没(53才)

25才でのれんを引き継いだ二代目「定司 さだじ」の時代はまさに「飛ぶ鳥をも落とす」勢いでした。

弟「鋼三」とともに店を盛り上げ、新宿を中心に新店も次々に開店。

新聞にもたびたび取り上げていただき、順調に商売を伸ばしていきました。

それでも亀井鮨は庶民の店だった

繁盛店、有名店への道をひた走る亀井鮨でしたが決して高級路線の店ではありませんでした。

内店の様子。当時は正座して握っていました。

ただし商っているものが鮨ですからそこは少々値の張る食べ物だったようで

当時の思い出を先代幸正(ゆきまさ=私の父)は

「庶民の食べ物ったって今の立ち食い蕎麦みたいに誰でも食べられるもんじゃぁなかった」

と生前よく話していました。

庶民の店、というと「安くてボリュームがあって」という現代風な受け取り方をされがちだけど

こと鮨に関しては昔から「すごく人気だけど安くはない」ものだったようです。

伊勢松の心は現在の鮨武に

伊勢松が亀井鮨を起こしてから134年。

鮨を取り巻く環境は大きく変わりました。

スーパーの持ち帰り寿司や回転寿司、宅配専門店に銀座の超高級店、居酒屋のような寿司屋に立居食い店。

一言で鮨屋といっても実に様々な形態に枝分かれしています。

伊勢松がみたらビックリするでしょうね。

「のれんに泥をぬらないよう、正直に働かなきゃダメだ

「安く売る努力が大切だ。だけど安くしたいからって味を落としちゃダメなんだぞ」

「きちんと美味しい鮨を正直な値で売ればいいんだよ、お客様に喜んでいただき、少しの利を得ればいい」

「お客様ってのは本物かどうかを、見てない様でちゃんと見てるもんだ。小手先や流行りに走ったらダメだ」

父幸正は私が25歳の時に他界しました。

短い間でしたが様々な言葉を残してくれました。

父の言葉はおそらく定次の言葉であり伊勢松の言葉であり、ひょっとしたら毛利定次郎のそれなのでしょう。

「皆は一体いつ寝てるのか」

と言わしめた、百年前の人々の商売や仕事に対する姿勢。

今の時代に逆行してると笑われても、私にはとても「しっくりくる」感覚です。

それはやはりこの身体に、毛利家と亀井鮨の血が受け継がれているからなのだと気づきます。

「額に汗して懸命に働くことで、『いらっしゃいませ』の言葉に、えも言われぬ力が生まれるもんだ。そういうもんだ。」

ご先祖様にこころの底から感謝。合掌。

『大正四年三月二十二日 相州住亀井源蔵定兼末子 毛利伊勢松の墓』 令和4年3月都内墓所にて

身内の話を長々とお読みいただきありがとうございました。

失礼いたしました。

今日はここまでです。